高橋久美子の旅のメモ帳vol.5「大田区の海と空」
作家・作詞家として活躍されている高橋久美子さんが、旅先でとったメモを起点に心にとまった風景を綴る連載エッセイ。東京で見つけた秘密の楽園。海から空を眺めて気づいたこととは。
文・写真/高橋久美子
2020年の夏の終わりのことだった。
「こないだお友達と海にいったんだよ」
と、隣に住む小学生が言った。
「へー、湘南とかいったの? おしゃれだねえ」
「ううん、近くの海だよ」
うーむ。東京で海となると、江戸川区の葛西海浜公園なら泳げるが、私達が住んでいるエリアからはけっこう離れている。近くに子どもが遊べる海なんてあるかなあ? その子のお母さんに聞いてみたら大田区の大森駅と平和島駅の間くらいにある海辺だと言う。
「泳ぐのはダメだけれど、ちょっと子どもを浜遊びさせたりするにはいいよ。きっと執筆の気分転換にもなるから高橋さんも行ってみたらいいですよ」
帰って調べてみると「大森ふるさとの浜辺公園・大森水辺スポーツ広場」という名前で、都内では初めての区立海浜公園だそうだ。
コロナがはじまって半年が過ぎようとしていた頃だった。夏休みだというのに実家にも帰れず、旅行もできず、保護者のみなさんは苦労されたようだ。遠出しなくても夏を楽しむ方法を探しまくり、そして探してみたらあるものだねえ。
数日後の朝、お弁当を作りレンタカーを借りて、夫と海を目指す。湘南や三浦海岸ではない。大田区の海だ。響きがいまいち軟弱だが、サーフィンするとかじゃないので、いいとしよう。だんだんと住宅がなくなって、工場や倉庫ばかりになってきた。あ、本当に潮の匂いがしてきたよ。ゲートをくぐり広い駐車場に車を泊めて、保冷バッグに入れた弁当とレジャーシートをもって磯の匂いがする方へ歩く。海の手前は公園になっていて、立ち並ぶ立派な松の木が日差しをやわらげてくれている。木陰で昼寝する人、テントを立ててキャンプ気分の人、弁当を食べる家族。何だここ、楽園やないの! 私達もちょうどよさそうな木の下にシートを敷いて荷物を下ろし、ビーチサンダルで海へ駆け出せば、もう夏! 夏! 夏!
目の前に広がっている海。そりゃあ、茅ヶ崎や三浦のようにじゃぼーんと波がくるわけではないし、海の向こうにそびえ立つビルが見えるのもTHE東京なんだけど。でも広い空と、それを映す海という名のしょっぱい水たまりがある。それだけで鬱々とした心が開放されていく。もっと早くにここに来ればよかったな。私はズボンをまくって膝まで水につかりぼんやりと海を眺めていた。海に来ると、地球と一体になっている感じがするのはなぜだろう。体の大部分が水である私にも海が溶け込んでいるからだろうか。
ゴゴゴゴゴー! なに? なに? 空を見上げると、かなり低空を飛行機が飛んでいく。「ほら、あそこが羽田空港だよ」どこかのお父さんが子どもに指差している。泳いでいけそうなほど近くに、見なれた空港が見えた。子どもたちが飛行機に向かって手を振る。そうか、羽田ってこんなに海のそばだったんだ。実家に帰るとき、いつも利用しているけれど帰ることばかりに意識がいくので、自分がどこから飛んでいるかなんて考えもしなかった。あそこからいつも私は空を飛んで帰っていたのか。
海から、いつかの自分を眺めていた。その夏、東京からどこへも帰れない私達がこの海に集って、飛んでいく飛行機を見送っているようだった。それから、松の木の下でお弁当を食べて、あまりに風が気持ちよくて私達はしばらくうとうととした。
私は、携帯に「東京の海がきれいだった。いつも空から見ていた場所はここだったのか」
とメモをした。
コロナ生活がここまで長く続くとは思っていなかったけれど、空港へ行くことも増えたし、実家へも帰れるようになった。そろそろまたあの秘密の海に行こうかなあ。木陰に入っておにぎりを食べ、本を読み、誰かの旅を見送りたい。