樹齢二○○○年の旅

旅と創造

連載第18回


文・絵 小林エリカ

上を見上げると、荒々しく太い幹はうねり、その先端に伸びる枝には葉が生い茂り、その隙間からは雨上がりの空が覗いて見えた。
大きく太い幹にはしめ縄が飾られ、その手前には小さな祠が建てられている。
樹齢二○○○年の楠だという。

先月、熱海を訪れた際、たまたま通りがかった来宮神社で、私はその巨木を見た。
樹齢二○○○年。
つまり、二○○○年前、西暦二十年からこの楠はここに生えているというのだ。
日本は弥生時代。
キリストだって二十歳だ。
それが果たしてどんなむかしなのか、あまりにもむかしすぎて、私にはうまく想像できない。
それでも、この木はずっとここにあり、この木のもとで人が遊んだり、食べたり、寝たり、祈ったり、してきたのだ。

今の時代、石炭を使うことも目にすることもめったに無いが、私は石炭というものが、何万年も何億年も前に生きていた植物の化石だと知ったとき、ひどく感動した。
子どもの図鑑をめくってみたら、古生代石炭紀(約2億9900万年前から約3億6000万年前)とよばれる時代が存在し、イギリスの石炭のほとんどは、この時代の植物――巨大なシダ植物(鱗木、封印木、蘆木など)――の化石なのだとか。
そんな植物たちが死に、やがて部屋の暖炉で燃え上がったり、機関車を走らせたり、工場の生糸機械を回転させていたりするかと思うと、ぞくぞくする。
むかしの人は、火を見るたびに何万年も何億年も前に生きたものたちのことを、想っただろうか。

ひとりの人が生きて死ぬより、遥かな過去や未来。
それを想像するのは難しい。けれどそれは畏ろしくて、とても尊い。

それにしても、あの楠がまだ小さかった時代に生きていた人たちは、その二○○○年後、この場所が立派な神社になり、iPhone片手に大勢の観光客が現れて、そこで自撮りした写真を次々Instagramにアップするような現実が訪れようとは、想像だにしなかったに違いない。

雨上がりの熱海の空に、虹を見た。
いまから二○○○年後の未来というのは、いったいどんな風だろう。
私は確実に死んでいるが、木々はまた春や夏になれば葉を茂らせているだろう。

小林エリカProfile
小説家・マンガ家。1978年東京生まれ。アンネ・フランクと実父の日記をモチーフにした『親愛なるキティーたちへ』(リトルモア)で注目を集め、『マダム・キュリーと朝食を』(集英社)で第27回三島賞候補、第151回芥川賞候補に。光の歴史を巡るコミック最新刊『光の子ども3』(リトルモア)、『トリニティ、トリニティ、トリニティ』(集英社)発売中。