湧き出ずる泉

旅と創造

連載第9回

文・絵 小林エリカ

しんしんと雪が降り積もるなか、湯気が立ち昇る温かな露天風呂に浸かる。これほど最高の贅沢はない、と私は思う。
日本猿の親子が温泉に浸かって、はぁ〜という表情になっている写真をよく見かけるが、まさにあれである。温泉の気持ちよさというのは、原初的な快楽のうちのひとつなのかもしれない。
群馬県草津町の「西の河原露天風呂」、和歌山県那智勝浦町にあるホテル浦島の「大洞窟風呂」、大分県竹田市の「ラムネ温泉」……数え上げてゆくと、素晴らしい温泉にはきりがない。
泉質がいいとか、絶景だとか、温泉のよさはそれだけじゃない。その温泉にまつわる伝説を知るというのもまた面白い。

わけても私がもりあがったのは、福島県石川町にある猫啼(ねこなき)温泉。平安時代の作家、歌人の和泉式部の生まれ故郷だともいわれている地である。
かつて、まだ少女だった姫、のちの和泉式部は、猫を可愛がっていた。しかし、姫の美貌と歌の才能は京の都にまで知れ渡り、姫は都へ上がってしまう。ただ一匹故郷に残された猫は、愛する姫を偲んで啼きつづけ病に臥せる。ところが、その地に湧き出ずる泉に浸かると、病は癒えた。かくして、その温泉は猫啼という名前で呼ばれるようになった。
猿だけではない。猫だって温泉に浸かるのだ(溺れてしまわないかが心配ではあるが。「吾輩は猫である」の猫の如く)。和泉式部もその湯に浸かっただろうか。

――夢よりもはかなき世の中を、嘆きわびつつ明かし暮らすほどに、四月十余日にもなりぬれば、木の下くらがりもてゆく。

和泉式部日記の冒頭である。冬が過ぎれば春がやってきて、木々の葉は生い茂り影が落ちる。千年前もいまも、おなじ風に季節は巡りきて、春になれば木々の葉が生い茂り、人は離別に恋に思い悩む。

和泉式部の猫が浸かったという伝えが残る湯に、私も浸かる。透明な無色無臭のラジウム泉。思わず、はぁ〜という表情になる。
ところで和泉式部の生まれ故郷と呼ばれる場所を調べてみると、日本全国津々浦々、北は岩手県北上市から南は佐賀県白石町まであるらしい。たったひとりが、いったい何箇所で生まれたというのか。千年の時が経つと、ひとりの人間の人生もまた伝説になるのかもしれない。
けれどいまなお和泉式部の日記は読みつがれ、私は、私たちはその残された言葉に胸を震わせ続けているのだ。

これから千年後の未来。私たちひとりひとりの人生もまたその多くが忘れられ、伝説になるかもしれない。
しかしそれでも、泉は湧き続ける。
そしてその泉には、人間も猿も猫も浸かり続けるのだろう。
それから、みんなはぁ〜という表情になるだろう。

小林エリカProfile
小説家・マンガ家。1978年東京生まれ。アンネ・フランクと実父の日記をモチーフにした『親愛なるキティーたちへ』(リトルモア)で注目を集め、『マダム・キュリーと朝食を』(集英社)で第27回三島賞候補、第151回芥川賞候補に。光の歴史を巡るコミック最新刊『光の子ども3』(リトルモア)、『トリニティ、トリニティ、トリニティ』(集英社)発売中。